寒い日が続きますが、

道央圏は未だ大雪とのこと。こちらは毎日極寒快晴雪少なめ。

やっと過去を客観的に振り返ることが出来るようになった。

毎日、父との闘病生活が走馬燈のように駆けめぐる。

平成21年3月に仕事を辞め、5月連休明けに九州の弟宅へ自家用車を運転していく準備が整っていた。ところが突然中央部分離帯に車を乗り上げてしまい修理に出さなければならなくなり旅行も延期せざるを得なくなった。4月30日太平洋フェリーの予約もキャンセル。もう車を運転する自信が無いと言っていた。何故乗り上げたのか・・・急に意識がなくなったと親父は言っていたが、自損事故の原因は未だ不明。今思えば激痛が襲ったのだろうか。

「あのな俺末期のガンだわ。あと3ヶ月だって。」と電話で聞いた時は愕然とした。本当に頭が「ガーン」と殴られたような感じがした。身体全体から血の気が引いた。しかし、意外と父は冷静であった。金庫の鍵、通帳、印鑑の在処を教えてくれ、「戻ってくるから必要ないと思うが…」と付け加えて葬儀会場の会員証、遺影、保険の請求先などの説明があった。

闘病期間中の父とのコミュニケーションは自分が父と接してきた中で一番内容の濃い期間だった気がする。
病院へ行けなかったときはメールを送り、父も返信してきた。メールの内容は息子の体を気遣っての内容がほとんどだった。まさか父とメール交換をするとは夢にも思わなかった。

毎日病院へ通ったが何故だか行きたくないと思った日もあった。事務的な日もあった。申し訳なさから一日に2度も通った日もあった。父も様態が思わしくなく来て欲しくない時や早く帰ってほしいときもあったと思う。

6月末の一泊温泉旅行が最後の旅行になった。転勤族であった父は若かりしころ住んでいたKu町周辺とDoy湖周辺の懐かしい地を孫達と巡り楽しみ、懐かしい風景を充分堪能していた。かつてこの地で一心不乱に働き家族がそこで暮らしていたという証を皆で探した。

抗ガン剤の副作用で味覚障害が発生し物が食べられなくなった。口に食べ物を入れると「泥を食べているようだ」としきりに言っていたがそれでも食への意欲は治まることなく「どのようにすると食べることが出来るのか」と探求していた。しかし結局は食べられないことが大半であった。



いろいろあったなあ。。。長いようで短い1年4ヶ月だった。


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